白川和司 (総括主席研究員) のこれまで・・

2018/01/23

1961年  愛媛県新居浜市で誕生

新居浜市で、高校卒業まで過ごす。

新居浜市という強烈な遺伝子を、しっかり、たたきこまれる。

 

母親の実家は、ひとつ、山を越えたところであるが、その地域の人間性の違いに、今でも、驚く。山、という存在、峠、という存在が、これほど、文化を変えるものなのか、と、就職後、改めて実感。

この実感は、地域経済圏を考えないといけない場合に、非常に役にたつ。

 

 

1979年   神戸大学 工学部 環境計画学科に入学。鉄骨構造を専門とする。

 

 

1983年  建設省に入省  近畿地方建設局営繕部建築課に配属され、構造設計を担当。近畿地建勤務中、神戸営繕工事事務所でも勤務し、工事監理も経験する。

 

 

1987年  中国地方建設局にて、工務検査課、計画課で勤務。主として、合同庁舎の予算要求、施設特別整備の予算要求などを担当するため、中国地方全域を巡る。当時の計画課大先輩の影響・遺伝子をしっかりと受け継ぐ。

 

 

 

1989年  建設省大臣官房官庁営繕部 営繕計画課・監督課と勤務。本省庁における予算要求、重点などに関与する。また、三田共用会議所、参議院副議公邸などの大型物件の工事監理を担当し、技術的にも貴重な体験をする。さらに、当時、技術評価制度によるフラットデッキを担当し、建築技術に投稿 も行っているが、のちに、労働行政で、大きく、注目される論文になることをこのときは、知らず。ちなみに、こうした論文の参考文献に使われています。

 

 

 

1993年  フィリピンにJICA専門家として赴任。当時、フィリピンの基準類を勉強し、日本の方法と融合させて、技術移転を図る。

 

 

 

元CMDF事務所(以前は、パソンタモ、という通りの名前でした)

 

 

 

1995年  建設省中国地方整備局で、工務検査課長、官庁施設管理官として、経験を積む。当時、入札制度が大幅に変化する。また、保全業務に対する重要性が、急激に増している時期。

 

1998年  建設省建設経済局建設業課で勤務。建設業法、技術者制度を担当。法律を読む経験を積む。

 

2000年  ミレニアムに、奈良県営繕課長として赴任し、地方行政の経験を積む。貴重な人間関係を経験する。

 

 

 

2002年  国土交通省大臣官房官庁営繕部営繕計画課・計画課・整備課に属し、企画専門官、建築技術調整官を経験する。7号館の予算要求時期にあたり、超ビッグプロジェクトの貴重な経験をする。また、当時、遺棄化学兵器問題が発生し、これも、貴重な経験。さらには、社会資本整備審議会建築分科会官公庁施設部会の建議にかかわり、これもまた、貴重な経験をする。

 

2008年  インドネシアにJICA専門家として、小規模平屋建住宅の耐震性向上のために、技術移転業務に奔走する。インドネシアでの業務は、6年を超え、いつのまにか、インドネシア専門家にもなる。海外での勤務が、フィリピン時代も含め、8年間を超え、国際派 (東南アジア派??) とみられるようになっていることに、自分でも驚く。

 

最初の勤務地  ジョグジャカルタ

 

 

 

2番目の勤務地  パダン(担当県市は、タナダタール、プシシールスラタン、ブンクル大学に事務所も設置)

 

 

 

3番目の勤務地  マナド (Bitung, tomohonも担当)

 

 

 

4番目の勤務地  メダン

 

 

 

2014年  インドネシアから帰国し、官庁営繕部新人向けの教育資料を作成する中で、いろんな人から、情報を収集し、6年間を超える中での変化を、情報収集。

 

2014年10月1日から、現在にいたる。

 

 

 

その他
インドネシアでの普及活動の様子です。

インドネシアの煉瓦積みの様子です。こうした雑な積み方ではない正しい積み方も
普及活動しました。

現場で寝られているモルタルの状況を確認しています。
日本からきた左官職人の方が、インドネシアのように、一発で、ある程度厚くつけるには、
ある程度貧配合でないと難しい、というのは、目鱗でした。
ただ、貧配合だと、モルタルそのものの強度は、落ちてしまいます。

 

 

 

インドネシアの建築行政の能力向上をめざしして活動しておりましたが、建築行政に対する
政治関係者の意識、国・地方の政府機関の幹部の意識が上がった結果として、地方の建築
条例の制定が進んでいる、と考えられますが、傾向としては、以下のとおりです。
(インドネシア側のデータは、公共事業省人間居住総局の資料による。)